LOGIN数日後、礼拝堂の中がばたついているのを二人は感じていた。一体何があったのか探るべく、リスルが異能を練ろうとしていると、アイリスが二人の元に駆け込んできた。
「異能者を匿った咎で村が神聖騎士団に占拠されました」 「な……」 リスルは絶句した。シスター服の娘は険しい顔で二人へと告げる。 「急な話ではありますが、お二人にはこの村から逃げていただきたいのです。……彼らの狙いはあなたたちの身柄を抑え、痛ぶり、滅することです。ですからどうか……この村から離れてください。お願いします」 リスルは歯噛みした。自分たちのせいだ、と思った。しかし、自分たちに今できることは、逃げることだけだった。 リスルは石の床に無造作に置いていたモスグリーンのモッズコートを拾い上げると、袖を通す。まだロイゼン山で異能を行使したときの疲れが残っているが仕方ない。あの日だけで、少なくとも二回は異能を暴走させているイーシュはきっともっと消耗しているはずだった。 「イーシュ、逃げるわよ」 リスルは床に座り込んだままのイーシュへ手を貸し、立ち上がらせた。リスルはネイビーのダッフルコートを拾い上げ、イーシュへと渡してやる。 まだ体力が戻りきっていないのか、のろのろとコートを身に纏うイーシュを横目に、ベージュのチェック柄のストールを巻きながらリスルはアイリスへと問うた。 「シスター・アイリス。今、表から逃げるのは危険よね? かといって、ロイゼン山へ戻るわけにもいかないし……」 「そうですね。先日通っていただいた通路ですが、ここの入り口の少し手前に分かれ道があったのを覚えていますか?」 リスルは、先日、迎えに来てくれたレイモンに伴われて、ロイゼン山から辿ってきた隠し通路を記憶の中で遡った。それらしきものに思い当たるとリスルは頷く。 「あの分かれ道を曲がってしばらく進めば、井戸場の近くの広場に出ることができます。恐らく、僧兵が巡回しているとは思いますが、警戒されているこの礼拝堂を正面から出ていくよりはまだ安全なはずです」 「わかったわ。そうする以外に、今のところ手立てはなさそうね」 リスルがそう言うと、アイリスは祭壇をなるべく音を響かせないようにずらしていく。リスルとイーシュがどうにか通れそうなスペースが暗闇の中に現れた。 「ありがとう、シスター・アイリス。レイモン神父にもお礼を言っておいてちょうだい」 それじゃあイーシュ、行きましょうとリスルは言うと、イーシュを伴って眼下の闇の中へ身を躍らせた。足場の悪い通路を二人は黙々と進んでいた。灯りのない真っ暗闇の中をさほど苦労なく進めていたのはリスルの異能《ヴィサス・ヴァルテン》によるものが大きかった。彼女の髪は炎のように波打ち、真剣に道を探る双眸は紅へと変化していた。異能を発動させた彼女は出口の方角から吹き込む風を野生動物のそれよりも正確かつ敏感に感知していた。ロイゼン山での力の暴走の影響で具合があまり良くないのか、青白い顔を俯かせたイーシュの手を引き、リスルは出口へと向かって進んでいく。
「……ここから上に出られるのね」 頭上から僅かに光が差し込んでいた。錆びて赤く変色したスチールのグレーチング越しに、よく似た色の暮れなずむ夕焼けの空が見える。まだ午後四時にも差し掛からないというのに、この北の辺境の一日の終わりは早い。しかし、夜陰に紛れて行動するには些か早い刻限である。イーシュを早くどこかで休ませたいが、彼の体調が思わしくないことを考えると、これ以上、騒ぎを起こすような真似は控えたい。彼に無理をさせたくはなかった。リスルは唇を噛む。乾いて皮が剥けてしまっていたのか、口内に鉄錆に似た味が広がった。 「イーシュ、この上に出れば広場よ。今動くと目立つからここで夜を待とうと思うけど、大丈夫?」 「はい……」 イーシュは弱々しく頷いた。体調の悪さと疲れにどうにか耐えようとするまだ幼さの残るその顔が痛々しくて、自分の無力さをリスルは苦々しく思った。 外の広場からは言葉を交わす複数の人間の声が聞こえる。いずれも男のもので、荒っぽい気配を孕んでいることから、恐らくは教会の総本山であるレシェールから派遣されてきた粗暴なことで悪評高い神聖騎士団の僧兵たちだろうとリスルは思った。彼らは己の職務や神に対して口汚く何事かこぼしながら、村の巡回をしているようだ。 「リスルさん」 ふいに傍らの少年が口を開いた。彼はおずおずと、 「今……俺に、異能の制御の仕方を教えてくれませんか」 「そんなこと言っている場合じゃ……」 僧兵たちに気付かれないように小声でリスルがそう言うと、イーシュは真っ直ぐな目でリスルを見つめ、畳み掛けてきた。 「俺の異能であいつらの気を逸らします。逃げる方向とは逆方向に、鋼の雨を降らせることができれば、あいつらの目はそっちに向くでしょう?」 だから村に大きな被害を与えないようにしつつ暴走しない範囲で力を使いたいのだと言うイーシュの声は真剣だった。しかし、リスルは首を横に振った。 「話はわかったわ。だけど、わたしは賛同できないわ。力の制御はわたしがある程度手伝えるでしょうけれど、あなた、この前の暴走でまだ体調が戻っていないじゃない」 「でも、早く逃げないと神父様とか村長のじいさんたちに迷惑がかかるんでしょう?」 「だけど……」 リスルは口籠もった。彼が言っていることは正論ではある。躊躇う彼女の言葉を遮るように、イーシュは畳み掛ける。 「俺なら大丈夫です。少しでもこれが有効な策だと思うなら、俺にやらせてください。守ってもらいっぱなし、迷惑かけっぱなしは嫌なんです、俺」 「……あなた、意外と頑固なのね」 頑として譲らないイーシュにリスルは嘆息した。彼女の荒れた唇から漏れた吐息が白く浮かび上がり、薄闇へと霧散して消えていく。明らかに強がりであるようにリスルの目には映ったが、ここで押し問答を続けて巡回中の僧兵たちに気づかれるような愚は避けたかった。仕方ないわね、とリスルはかぶりを振って、 「わかったわ。だけど、二つ約束してちょうだい。まず、必ずわたしの指示に従うこと。そして、何かあった場合、わたしは優先的にあなたを逃す――わたしは自分の身の安全くらいはどうにかできるわ。これらが守れないなら、あなたの提案は呑めないわ」 「……わかりました」 不承不承といったふうであるが、イーシュは頷いた。結局、自分が守られる身であることに納得がいかないようだったが、リスルはできるだけまだこの年若い少年を危険な目に遭わせたくはなかった。『悪魔の力』を身に宿す以上、避けようがないことなのかもしれないけれど、せめて自分の目が、手が、力が及ぶ限りは彼に危険が及ぶことも、その手を汚すような真似もさせたくはなかった。敬虔な信徒でもなく、教会の教義に反するとされる身の上ではあるけれど、もし神がいるのなら――リスルは一欠片も信じてもいない偶像に、傍らの華奢で頼りなげな少年の未来と安寧を祈っていた。 (ああ、この人は) 彼女は教会の言うような邪悪な『魔女』なんかじゃない。寧ろ、傷つきながらも誰よりも清く、強く、優しくあって、誰かを守ろうとする姿は、巷で囁かれている『聖女』そのものだとイーシュは思った。 「イーシュ、やるわよ。わたしが誘導するから従って」 リスルの右手が彼の胸元へ、左手が下腹部へと伸ばされる。身体に触れる温もりにイーシュはどぎまぎとして体を硬くする。 「リ、リスルさん……っ、何をっ……!」 「こら、イーシュ。力を抜きなさい」 「うう……」 イーシュはほんのりと顔を赤らめながらも、雑念を頭から追い払おうと努める。耳が熱い。 「まずは丹田(たんでん)――そうね、この辺り……おへそから指二、三本くらいの辺りに力を入れて。自分を見失わないために、ここを使ってどっしりと自分を支えておくの」 イーシュの耳元で落ち着いた声音でそう囁きながら、リスルは場所を示すように指先でイーシュの下腹部をさする。体が変に反応しそうになるのを意志の力で無理矢理押さえ込みながら、彼は言われた場所に力を入れる。 「……こうですか?」 「ええ、それで大丈夫。次は鼻から大きく息を吸って。気持ちを落ち着かせるの」 リスルの右手がとん、と軽くイーシュの胸を叩く。イーシュがすうっと静かに息を吸うと、流れ込んだ空気が腹を小さく膨らませた。口から全部吐いて、また吸ってとリスルに指示されるままに呼吸を繰り返していると、不思議と気分が落ち着いてきた。 リスルはイーシュの胸元に触れていた右手を離すと、背後から彼の右腕を取って添える。滑らかな感触の手のひらが彼の手の甲に重ねられる。 「指先に意識を集中させて。そこがあなたの力の出口になるわ」 イーシュの双眸が琥珀色に輝き始めた。何かが背骨を這い上がってくる感覚がする。これを野放しにしては力が暴走してしまう。彼は強く唇を噛んだ。伸ばした人差し指を残して、イーシュは無意識にぐっと拳を握り込む。 「力をそのままにするのではなく、肩から腕へ、腕から手へと向かうようにイメージして」 イーシュの中で、彼の意志と圧倒的な力の奔流がせめぎ合う。彼の体という殻を食い破ろうと抗っていた力は次第に彼の血管を辿って指先へと集まっていく。右手の人差し指が燃えるように熱い。 「それを全部解き放ってはだめ。ほんの僅かでいいの。そうね、その手をほんの少しだけ緩めてみて。だけど、制御をあなたの異能に渡さないように気をつけて」 加減を誤って村をめちゃくちゃにしてしまったらどうしようと、不安でイーシュの神経が張り詰める。自身の息を吐く音がやたらと大きく聞こえた。 それでもせめて自分のできることをしようと思った。自分は彼女のような人間にはなれないけれど、何もできない無力な子供でいたくなかった。 (いけ……!) イーシュは拳に込めた力をほんの僅かに緩めた。背骨を伝って噴き上げた力の奔流が、彼の指先が示す方向へと流れていった。《アイアン・メテオール》の力の凶暴な本質が彼の存在を塗り替えようと体内で暴れている。ふわりと遠のきかける意識をイーシュは歯を食いしばって無理矢理繋ぎ止めた。 「イーシュ、もう少し。もう少しだけ耐えきって」 リスルの腕がぎゅっと背中からイーシュの身体を抱きしめた。彼女の手の感触を支えにして、イーシュは自分を保とうとする。 少し離れたところから、金属がぶつかり合う高い音が聞こえた。木枯らしに吹かれて、色づいた木の葉がどこまでも高く青い秋の空に舞っていた。 イーシュは目の前に広がる記憶のままの風景に足を止める。紐で無造作に束ねた灰色の髪とグレンチェックのチェスターコートの裾が冷たい風で揺れる。 五年前の冬、リスルによって一命を取り留めたイーシュは、雪が溶け、花の蕾が綻び始める季節まで、この村に滞在していた。その間に、命を落としたリスルの葬儀を済ませ、村の復興作業へと彼は携わった。 それからというもの、イーシュはどうしてもこの村――ヴェレーンには足が向かないまま、国内を転々としていた。あの日、この村が山火事に巻き込まれたという負い目が彼の足をこの村から遠のかせた。 たまに立ち寄った町で日雇いの仕事をしては小銭を稼ぎ、その日暮らしを続けているうち、背も伸び、顔立ちも大人びて、イーシュは青年といっていい年になっていた。しかし、これから年を重ねて、あのころのリスルの年を追い越したとしても、到底彼女に追いつけるとも、彼女のようになれるとも思えなかった。 イーシュはキャメルのボストンバッグを持ち直すと、歩き始めた。時期が終わりに近づいてきた金木犀が風に乗ってふんわりと香ってくる。 すっかりあのころと変わらぬ景色を取り戻した村の中を懐かしさと鈍い胸の痛みを感じながら歩くうち、イーシュは比較的大きな一軒の家の前へと来ていた。以前、彼がこの村に滞在していたころ、一時期身を寄せていた村長の家だった。庭先ではまだ少し時期が早いはずの花の蕾が綻び、甘やかだけれどほんのりとスモーキーな色を覗かせていた。その花を見るとどうしても、もうこの世にはいない女性のことを思い起こしてしまい、イーシュは少し苦しくなる。 イーシュは扉をノックしようとして、躊躇った。悴んだ手が行き場をなくして彷徨う。 あの翌年の春に、自分の中でいろいろなことに半ば無理矢理区切りをつけてこの村を発つときに、いつでもまた訪ねてきてほしいとは言われてはいた。けれど、イーシュはそんな社交辞令を鵜呑みにして、招かれざる客が何をしにまたこの村を訪れたのかと、この家に住まう人々の表情が歪むのを見たくはなかった。 「あら、あなた、どこかで……?」 背後から年老いた女性に声をかけられ、イーシュは振り返る。草花をあしらった深緑のショールを肩に纏った小柄な老女が口元を押さえてこちらを
街道を馬車が走っていた。西へと続くこの街道の先には、宗教都市レシェールがある。 灰色の空からこぼれ落ちてくる花の霙を窓越しに何とはなしにスフェルが眺めていると、彼の向かい側に座るセイランが声をかける。 「スフェル殿下、もうすぐレシェールに着きます。しかし、本当によろしかったのですか? 王族ともあろう殿下の供が私一人で。このように少人数での視察など……有り体にいえば教会関係者にナメてかかられます」 「そう言うから、お前を連れてきたし、馬車での旅にすることを了承したではないか。本来なら、私が単身、オリーブで訪問すれば事足りることだというのに」 己の従者の諫言に、スフェルは嘆息まじりにそう返す。セイランは溜め息をつきたいのはこっちだと胸中で思いながら、 「殿下はあまりにも王族の威厳や形式というものを軽んじすぎです。こうした少人数での電撃訪問で教会側の意表を突き、取り繕う暇を与えないようにするという殿下の意図はわからないわけではないですが……。ですが、せめて身の回りの世話をする侍女の一人くらいはお連れください」 「子供ではないのだから身の回りのことくらい、自分でできる。それに、私にはお前がいるのだから、何も問題はないだろう? 私の側には信頼できる者だけがいればそれでいい」 「でしたら、いい加減エミルを殿下の侍女として召し抱えられたらいかがです? 彼女であれば、書類上は我が家の末席に連なる身分ですから、誰にとやかく言われる心配もありませんし、何より殿下を裏切ることは絶対にありませんから」 スフェルは窓の外の空と同じように表情を曇らせる。ヘーゼルの双眸に物憂げな色を浮かべると、 「私の都合で、あの子の人生をこれ以上掻き乱すことがあってはならないだろう。あの子は窮屈な城よりも市井で穏やかに生きるべきだし、今回のような視察に同行させればあの子の身が危険に晒されかねない。それに、一度あの子には私のそばで働くことを断られているから、しつこく誘うつもりはない」 「要はエミルに嫌われたくないというだけの女々しい理由でしょうに……まったく、殿下は年ごろの娘に嫌われたくない父親か何かですか?」 「……そういうつもりはないのだが」 「常々申し上げておりますが、殿下はエミルに入れ込み過ぎです。それに、以前に殿下がエミルに城で働くように勧めたのは出会って間もないころ
炎の波の中で壁が建物の焼け残った骨組みが黒々とその姿を浮かび上がらせていた。瓦礫が赤い光をちらつかせながら地面に折り重なっている。その様はさながら廃墟のようで不気味さを感じさせた。 イーシュは逃げ遅れた人がいないか確認しながら、崩れかけた建物を周っていた。まとわりついてくる空気が熱い。喉の粘膜を焼かれないようにイーシュは外套の袖口で鼻と口を覆う。 いつ崩れてくるともしれない、瓦礫と化した建物の残骸をイーシュは慎重に調べていく。先程も、柱を失った家の梁が落下してきて、消火活動の指揮を取っていた村長が頭を負傷し、運ばれていったのを見た。 近くから誰かの呻き声を聞いた気がして、イーシュは辺りを見回した。積み重なって倒れた家の柱の下から赤く焼け爛れた小さな人の手がのぞいていた。 「大丈夫ですか!」 イーシュは轟々と炎を上げる建物へと駆け寄り、柱の木材を押し上げようとした。焼けて炭になり始めているとはいえ、成長途中の少年が動かすにはそれは重過ぎた。べろりと手のひらの皮膚が剥ける。 小さく切れば動かすことができるかもしれないと、イーシュは思った。何かを切るにはお誂え向きの力が自分にはある。問題は自分がそれを一人で制御しきれるかどうかだった。 しかし、迷っているだけの余裕はない。イーシュ一人でもどうにか力を使いこなすしかなかった。失敗して力を暴走させてしまったらだとか、間違って下にいる人ごと切ってしまったらなどと躊躇してはいられなかった。 イーシュは目を閉じ、腹に力を込めた。意識を集中させ、鋼でできた花を思い描く。幸い、先程のロイゼン山での感覚はまだ覚えている。 体の中を背骨に沿ってせり上がってくる力の感覚を右腕へと誘導する。イーシュは琥珀色に光る目を見開くと、わずかに力を解放し、指先に鈍色の花を咲かせた。 イーシュは、鋼の花びらを太い木材にあてがい、慎重に切っていく。 額に汗が滲んだ。集中力が途切れれば、切ってはいけないものまで切ってしまいそうだった。 気道を焼かれたのか、喉がひどく痛かった。しかし、イーシュは手を動かすことをやめない。煙にやられて目も痛かった。しかし、今はそんな些事に構ってはいられない。 木材を小さく切り終え、イーシュは解放していた力を自らの中へ収めた。双眸が元の焦茶色へと戻っていく。 能力の行使で疲弊
煤と泥にまみれた二人がヴェレーンに戻ると、村はめらめらと揺らめく炎に包まれていた。夜と朝の狭間の色に染まった空とは対照的な色に照らされて浮かび上がる景色は、二人が覚えている平和な村からは遠くかけ離れていた。 記憶の中のトラウマを想起して、リスルは慄然として一瞬その場で立ちすくんだ。 「炎が……」 リスルは口の中でそう呟いた。自分が引き起こしたということが共通している目の前の事態は、全てを失った娘時代の晩夏の夜を連想するのには充分すぎた。 ほんの一度、季節が移ろうだけの短い間だったとはいえ、身を寄せ、世話になったこの村をリスルは故郷の二の舞にはしたくなかった。 しかし、長年使い続けた《レーヴェン・スルス》の影響を受けて弱りきっている上に、疲労で万全には程遠い今の体調では《ヴィサス・ヴァルテン》の力を使って消火を試みるのは危険だった。先程、ロイゼン山で力を扱い切れずに暴走させてしまっている以上、ここでまた同じことが起きないとも限らない。焦る気持ちを押さえようとしながら、リスルは何かできることはないかと考え続ける。 「……神父様」 リスルの様子を何もいえないまま気遣わしげに見ていたイーシュは人の気配を感じて振り返る。煤けた法衣に身を包んだ人の良さそうなその人は、イーシュ君と彼の名を呼ぶと、苦い笑みを浮かべる。 「こうなるような気はしていましたが……どうして戻ってきてしまったのですか。先程、忠告はしたはずですよ」 「だって……わたしのせいですから。わたしがもっとしっかり力を扱えていればこんなことには……」 蚊の中ような声でリスルは答え、俯いた。茶色い巻毛が彼女の横顔に浮かんだ表情を隠した。 どういうことですか、とレイモンはイーシュに目配せした。イーシュは泥にまみれたブーツの先で背伸びをして、レイモンへと耳打ちした。 「さっき、リスルさんが山で力を使って山火事の状況を探ろうとしたときに力を暴発させてしまって……。どうにも異能の影響で体調がよくないみたいで、力を扱い切れなかったみたいなんです。それで、そのときに発生した強風で村の方に炎が流されてしまって……」 なるほど、話はわかりましたとレイモンは頷いた。そして、彼は身を屈めて俯くリスルと目線の高さを合わせると穏やかにいう。 「シスター・リスル。あなたがすべてを背負い込む必要はあり
先を行くリスルに追いついたイーシュは、彼女と共に雪の積もった山道を歩いていた。辺りには煙が立ち込めていて、すぐそばにいるはずのリスルの姿さえも見失ってしまいそうなほどに視界が悪い。煙が目に染みて痛い。 リスルは辺りを探るようにしながら、慎重に歩みを進めていた。彼女は記憶の中の地図の情報を引っ張り出して、 「もう少し北寄りに進めば、崖になっていたはず。作業をするなら、たぶんそっちのほうがいいわね。元々燃えるものが少ないから、作業量を抑えられるわ」 方角すら怪しい中、二人はブーツの底で雪を踏みしめながら歩く。今の状況では、すぐにうっかり獣道へ迷い込んでしまう。 ふいにイーシュは体勢を崩し、足元を滑らせた。それまで立っていた場所の雪が崩れ、下へと落ちていく。咄嗟に持っていたシャベルを地面に突き立てたが、体重に耐えられずに傾いでいく。 「あっ」 声を上げたイーシュへとリスルの手が伸びてきて、腕を掴んだ。 「イーシュ、大丈夫?」 そういって引き上げてくれたリスルの腕は若い女性のものらしく華奢だった。イーシュは己を情けなく思いつつも、その腕に縋りながら這い上がる。 「ごめんなさい、わたしのミスね。思ってたよりもだいぶ進んでいたみたい」 「いえ……俺も注意不足だったので……。 ところで、ここが崖になっているってことはリスルさんが目指してたのはここですか?」 「そうみたいね。イーシュ、大丈夫そうなら、その辺りからずっと一直線に地面を掘って、溝を作ってくれる? わたしはこの辺りの木を切り倒すわ」 足元には気をつけてね、とイーシュへ注意を促すと、リスルは持ってきた斧の柄を両手で握り、振り上げようとする。しかし、気迫だけはそれっぽい感じを漂わせているが、姿勢がおかしいのかどことなく腰が引けている。生い茂る木々はどれも太く高かった。イーシュは何回目になるかわからないが、あまりにも無謀なことをしようとしていると思いが脳裏をよぎり、つい口を挟んでしまう。 「あの……リスルさん、斧を使ったことは……?」 「昔、教会の追手から逃げるときに投げつけてやったことならあるけれど……本来の使い方をしたことはないわね。それでもまあ、どうにかするわ。どうにかするしかないんだもの」 「無謀です……」 イーシュは半眼でリスルを見やりつつ、嘆息した。妙に気迫だけ
リスルとイーシュが湖畔の風車小屋に逃れてから三日が過ぎた。 肩から毛布を被り、椅子で眠っていたリスルは、明け方、イーシュによって揺り起こされた。 「リスルさん、起きてください。外が大変なことに……」 「ん……ふぁ……どうしたの、イーシュ」 眠い目を擦り、欠伸を噛み殺した間延びした声でリスルが応えると、イーシュは血相を変えて畳みかけた。 「外を見ればわかります! 山が燃えて……!」 山が燃えている。その言葉に反応して、リスルは完全に覚醒した。彼女は両頬を叩き、真顔になると立ち上がる。被っていた毛布を床に脱ぎ捨てると、彼女はイーシュに引っ張られるようにして小屋の外へ出た。 まだ夜の気配が色濃く残る暁の空の下、ヴェレーン村の向こう側にあるロイゼン山が赤く燃えていた。少女時代のトラウマを刺激され、リスルは口元を押さえて立ちすくむ。何とか絞り出した声も意味のない音にとなり、白い吐息と共に空気中へ霧散していく。 「な……」 山火事が起きていた。風向きが悪く、ヴェレーンへと炎が降りてくるのも時間の問題だった。 これに関われば自分はきっと、生きて朝日を見ることはないだろう。何となくそんな予感がした。 けれど、これは自分たちが招いた結果だ。リスルは我が身可愛さにこのままこの地を離れることなどできなかった。 「ロイゼン山へ行くわ。イーシュはここにいて」 ロイゼン山のある南西の方角へ走り出そうとするリスルをイーシュはその腕を掴んで止める。 「やめてください、危ないです。そもそも行って何をするつもりなんですか」 「わたしにできることをするの。《ヴィサス・ヴァルテン》の力をもってすれば、直接的な鎮火はできなくても、燃え広がる方向を変えることくらいはできるわ。緩衝帯を用意してそっちに炎を誘導してやれば……」 リスルは一人で木を切り倒して燃えるものを無くし、地面を掘って溝をつくることで延焼を食い止めるつもりだった。リスルがそれをイーシュに話すと、彼は首を大きく横に振った。 「無理ですよ! リスルさん一人でできることじゃないですよ! いくら異能があるっていったって、それ以外はリスルさんは普通の女の人じゃないですか! 無謀です!」 「無理でも無謀でもやらなきゃいけないの。これ以上、あの村に迷惑はかけられないもの。 イーシュ、気付いている?







